グングニルの矛先

それはそれは、大した話なんかじゃなかった。聞いた他の人にとっては本当にどうでもいい話だと思うし、実際どうでもいい話だった。それでも当の本人たちからすれば大きなことだった。とても、とても大きなことだった。片手で持つことができるほどの小さなものだったけど、それは確かに大きなものだった。信じるも信じないも人それぞれだろう。だが、自分は心の底から信じている。彼女の存在を。
彼女と私が出会ったのはずいぶん前のことだった。ただこのこうてつ島で偶然会っただけ。目があったらバトル、と言うのがトレーナーとして当たり前なので戦ってみたら、あっさりと勝ってしまった。戦いたくてトレーナーをやってるわけじゃないと、彼女は苦しそうに笑って言った。


彼女が育てていたポケモンはこの地方では珍しいものだった。きっとどこか別の地方から来たんだろう。愛しそうにポケモンを撫でる彼女の姿がなぜか心に焼きついた。心が締め付けられるような気がしていた。なんだかまだ離れたくなくて、話でもしないか、とどうでもいい理由をこじつけて彼女を留まらせた。

「わたし、っていいます」それだけでも魔法の言葉だと思えた。胸にしみた。染みて沁みて、そのまま帰ってこなかった。「私はゲンだ」どきどきとしている心が聞こえてはいないだろうか、大丈夫だろうか。緊張しているのが気付かれないか冷や冷やとした。どうやら私は彼女に格好悪いところを見せたくないようだ。

「わたし月からきたんですよ」楽しそうに彼女は言った。それはいい、それなら君と一緒にいるピクシーにも納得がいく。「おかしなことを言うんだな」私も笑って返してみれば、彼女はまた苦しそうに笑った。(そんな笑顔はみたくない)すぐに話題を変えよう、私は働かない頭を一生懸命に動かした。

「お月さま、きれいですね」月の光を浴びている彼女はきれいだった。私は目を奪われた。でもその姿はどこか儚くて消えてしまいそうで、怖くなって返事を返さなかった。それなのに彼女はまだ話を続ける。「わたし、本当に月からきたんですよ」うさぎさんです、と楽しそうに続けた。「そうか」それしか言わなかったのに、彼女は満足そうに笑った。

「それじゃ、わたし、もう帰ります」そう言って立ち上がる彼女。相変わらず月の光を浴びていてきれいだ。「それなら家まで送ろう」私が言うと、彼女は切なそうに笑った。「ごめんなさい、あなたはわたしの家までこれないの」だってお月さまですもの。認めたくなかった。昔話の月から来たお姫様は、愛する人々を置いて月に帰ってしまうのだ。私も置いていかれるのか!この、美しい彼女に。

「帰るのか」歩き出そうとする彼女に私は問う。振り返った姿も美しい。「ええ、帰ります。お月さまに」そばにいたピクシーも小さく鳴いた。「そうか」と私は言った。それだけなのに、彼女は幸せそうに笑った。「あなたに会えて、嬉しかったです」私も君に会えてよかった。そう返せば、また嬉しそうに笑った。私はどうやら、君の笑う顔が、好きらしい。月が雲に隠れようとしている。

「また、会えたらいいですね」その声に答えようとした。月の光を浴びている彼女を見ようとした。だけど、そこには誰もいなかった。月はもう、雲に隠れてしまっている。
彼女はまさしく月の姫。彼女と私が出会ったのは偶然であり必然。きっと誰かに月から人がきた!なんて騒ぎながら言っても信じないだろう。そんなものだ。彼女と一緒にいれたのはたったの一瞬だったけれど、彼女がいた証拠なんてどこにもないけれど、今私の中にあるこの温かい感情がすべてを物語っている。

それはそれは、
泡沫の夢のよう

(一睡の夢の如し)





2007.05.25