声が、聞こえた。




「ネジキ」優しい声が、ぼくの耳に、静かに、ゆっくり、それでも確実に浸透してゆく。その声はぼくにとって心から大切なものだと分かるのに、それは分かるのに、その声の持ち主が誰か全く分からない。聞き覚えのある、毎日聞いていたようなその声。いや、耳障りと感じるどころか、もっと聞いていたいと思えるほどだ。この声の持ち主は、誰だ。
そっと、目を開いてみた。広がるのはソファーもテーブルもない真っ白な部屋。白すぎるせいで壁がどこにあるのかも分からない。そんなわけのわからない部屋の真ん中に、女の子が一人、立っていた。



「ネジキ」
その女の子の顔は白いもやのようなものがかかっているせいで全く見えない。でもその声は、さっきぼくが聞いた声と全く同じもので、ぼくと同じ空間にいるその人物が先ほどの声の持ち主だということがわかる。立ち止まっていた足を動かして、女の子に近付こうと歩き出した。彼女との距離感はこれっぽっちも掴めなかったけど、それでも、彼女の近くに行くために、ぼくは足を一歩一歩進める。「ネジキ」歩き出したぼくを見てか、その女の子は驚いたような声で(それでもぼくの好きな声で―――ぼくの、好きな声?)ぼくの名前を呼んだ。少しずつ近付いているはずなのに、まだぼくと彼女の距離は、遠い。


「ネジキ、こっちに来ちゃだめ」慌てたような声が少し離れた場所から聞こえる。返事をしようと思ったけど、口を開いている間に彼女が消えてしまうと考えたら、話してはいられなかった。「ネジキ、お願い」か細いその声にやっぱり聞き覚えがあって、それでも持ち主を思い出すことができない自分に苛立つ。「ネジキ」ねえ、君は誰なんだい。ぼくを知ってる、ぼくが知ってる人なんでしょう?今度は声に出そうとした。それでもぼくの声は音になることはなく、そのまま空気に溶けてしまった。「わたしは、あなたが大切なの、ネジキ」知ってる、知ってるよ、君のこと。なのに―――思い出せないんだ。



「久しぶりに会えて、嬉しかった」どんなに歩いても歩いても、走っても走っても彼女に近付くことができない。どうして?どうして君には近付けないの?君の声は耳元で聞こえるのに、君との距離はこんなにも遠い。真っ白い部屋に、ぼくと彼女、二人きり。「ネジキ、わたしが会いに来たのが悪かったんだね。ネジキの負担になるようなこと、してる」そんなことない、と言いたいのに声は出ないし、近付こうにも距離は一向に縮まらない。彼女の顔には相変わらずもやがかかったままだ。彼女が誰か分からないまま終わってしまうのか。―――何が?湧いた疑問が、ぐるぐるとぼくの心をかき乱し始めた。


「思い出さなくていいよ」君の寂しそうな声が焦るぼくを更に急かした。何故焦ってるかなんてわからなかったけど、ぼくはとにかく早く彼女の元へ行きたかった。彼女のそばに行けば、すべてを思い出せそうだったから。「ネジキ、わたしね」待って。まだ君を思い出せてないよ。君の名前を呼べてないんだよ。「後悔してないよ。今ネジキが幸せならそれでいいから」気が付けば歩いていたはずのぼくはいつの間にか走っていた。先ほどとは違い、彼女への距離が少しずつ、でも確実に近付いている。「ネジキ、わたし、ネジキのこと大好きだよ」手を伸ばしても彼女との距離はそこまで変わらなくて、変化の起こらないこの状況に苛立ちを感じた。早く、早くしないと。「それじゃ」あと少し、というところで、彼女の顔のまわりを取り巻いていたもやがはれ始めた。君は――――



「おやすみ、ネジキ」

ねぇ、待って、ねえ、――――――







「…なんだったんだろ、あの夢」
目覚めたとき、ぼくはひどく寝汗をかいていた。寝間着がべったりと体にまとわりつく。それだけでなく、ぼくの頬には物語のように涙が伝っていた。そんな嘘みたいなことあるわけない、と思っていたのに、ぼくの頬の上を流れている液体は確実に涙だ。おそるおそる左手で掬って、舐めてみた。当たり前のように、しょっぱい。その涙の中にある塩分は、ぼくの中に静かに溶けて、それからぼくの中のどこかにある傷口に、そっと触れた。