リリーナのことは、嫌いじゃない。とてもすばらしい人だと思うし、ぼくには勿体ない人だとも思う。彼女は完璧な存在だ。家臣から信頼され、領の民に愛される。それが彼女の人柄をすばらしいと物語る。申し分のない人だ。むしろぼくが彼女と結婚していいのだろうかと思うほど、ぼくと釣り合わない。容姿だってすばらしい。並の人とは比べ物にならないと、リリーナの父上のヘクトル様が言っていた。(共感できるけど、親ばかだ)…結局のところ、ただ、ぼくは彼女を愛せなかったのだ。

「愛しています、ロイ様」

その言葉だけでぼくは強くなれた気がした。気がしたという思い込みでしかないのかもしれないけど。この言葉を言われたのはいままでで何度かあった。でもぼくの心に深く深く浸透していったのは声をかけてきた女性ではなく、婚約したリリーナでもなく、ぼくが心から愛した、あの少女だけだった。その言葉を彼女に言われたのはたった一度だけだったけど、苦しいとき、悲しいとき、声と一緒に思い出しては強くなれた気がした。響きを思い出すだけでどんなつらい困難だって乗り越えられるほど、その言葉には魔法がかけられているような力があった。

婚約が決まったとき、ぼくは急いで城から少し離れた小さな街に向かった。昔からよく城を抜け出してはその街に遊びに行ったものだ。最近はベルンとの戦いもあったし、終戦後の執務に追われて行くことが出来なかった。平和を取り戻し、安定してきたところでこれだ。神はぼくが嫌いなのだろうか。その街に住む、愛しい彼女を想いながらぼくは馬を走らせる。さすがぼくの愛馬だ。気持ちを理解したのか、彼はいつもより早足で目的地に向かっていた。

馬を街外れの馬小屋で待たせ、ぼくは彼女に会いたい一心で足早に一軒の家に向かう。先ほどよりもフードを深く被り、顔に影が帯びるようにした。これでぼくの顔はあまり見えないはず。町民に見つかっても昔からの馴染みだから特に騒がれることもないだろうが念のためだ。…小さな街とは言えどさすがに街は街だ。外れの馬小屋から反対側にある彼女の家は、最近運動をしていなかったぼくを息切れさせるほど距離があった。

ようやくたどり着いた小さな一軒家。ここに彼女はいる。そこに存在している。どくどくと鼓動が高鳴っていく。心の準備という名の深呼吸を繰り返して、大体落ち着いたところで扉を勢いよく開ける。扉の向こうにいたのは、驚いたように目を見開き顔を強ばらせた愛しい彼女だった。会えた安心から自分の口元を緩ませると、彼女もつられたように笑ってから、「おかえりなさい」とぼくに言った。

目を合わせることは出来ても、言葉を発することは出来ない。声を出そうとすれば、震えすぎて音にもならない。言うことが出来ない。君に、あの事を伝えることを、ぼくは心から恐れているようだ。彼女の瞳が、ぼくを射ぬこうとしている。そのまま射殺された方がぼくらのためになると思ったけど、それが出来ない自分の立場を憎んだ。きっと同じ様な状況で、ぼくが侯爵ではなくただの一般人であったなら、ぼくは今ごろ、彼女と心中をするか逃げ出していたと思う。

彼女のことは昔から好きだった。想いを告げたことは一度もないのだが。そして今日この場でも告げることは許されない。そう、ぼくはこれから永遠に想いを告げることをできないのだ。たった数秒で言える言葉を、何年かけても言うことができない。

彼女を見つめた。先ほどより顔が強ばっている。ぼくの言いたいことがなんとなくわかっているのかもしれない。それでもぼくは言わなければならなかった。はっきりと、自分の口から真実を告げなければならなかった。やはり声が震える。ぶれてぶれてぶれて、音にならない。彼女の瞳が揺れている。ぼくは意を決して、口を開いた。

、君に聞いて欲しいんだ。ぼく、リリーナと…結婚することにした」

揺れていた彼女の瞳がさらに切なげに揺れる。ぼくにもそれが移ってしまったのかもしれない。彼女を直視することが出来なかった。変えないでいるつもりだった自分の表情が少しずつ崩れていく気がした。泣きそうな瞳で彼女がぼくを見つめてから、口を開いた。

「わたしは、あなたを、愛していました…ロイ様」



少し前の記憶がぼくの中で渦巻いた。今の状況を思い出してハッとなる。リリーナが、ぼくらの結婚を祝う人々が、この扉の向こうで待っている。式はもうじき始まる。式に出ることすら許されない彼女は今、誰にも見えない分厚いの向こう側にいる。